放送日: 2022-04-16 史跡

 安永8年、桜島が「地獄」と化した日――焼亡塔が今に伝える命の記憶

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番組名:歴史の散歩道


「もし、空が七日七晩も真っ暗になったら、あなたはどう行動するでしょうか。」
火山灰が昼を夜に変え、大地は揺れ、空からは真っ赤な噴石が降り注ぐ。逃げても逃げても噴火が迫り、人々は家族の手を握りながら、生き延びることだけを願って走り続けました。
鹿児島に暮らす私たちにとって、桜島は美しい景観の一部です。しかし、今から240年以上前、この火山は想像を絶する災害をもたらしました。その記憶を静かに語り続けているのが、垂水市海潟の菅原神社境内に建つ「桜島焼亡塔」です。
今回の『歴史の散歩道』では、大隅史談会の瀬角龍平さんの案内をもとに、この供養塔に刻まれた悲劇の歴史をたどります。

垂水市菅原神社

人々の命を弔う「焼亡塔」

番組でパーソナリティのあやみさんは、まず焼亡塔の概要を紹介します。
「焼亡」とは、文字どおり焼けて亡くなること。この塔は、安永8年(1779年)10月の桜島大噴火で命を落とした人々を供養するために建てられた供養塔です。
現地を案内した瀬角さんは、風化した石塔を前に静かに語ります。
「これは焼け死んだ人たちの供養塔なんですね。」
その一言だけでも、この石塔が単なる史跡ではなく、多くの命の重みを背負っていることが伝わってきます。

垂水市桜島焼亡塔

七日七晩、昼が消えた世界

瀬角さんによれば、この大噴火では「七日七晩、辺りが真っ暗だった」と伝えられています。
現代でも桜島の降灰に驚くことがありますが、それとは比較にならないほどの火山灰が空を覆い尽くしたのです。
当時の桜島には橋も道路もなく、島を離れるには船しかありません。しかし海には溶岩が流出してできた軽石が一面に浮かび、船は動けなくなりました。
「助けに行きたくても行けない。」
対岸の垂水から救助しようとしても、真っ赤な噴石が次々と飛び散り、海は軽石で埋め尽くされ、船は前へ進めませんでした。
自然の猛威の前では、人の力がいかに小さいかを痛感させられる場面です。

垂水市桜島焼亡塔(説明版)

母親が背負った、あまりにも悲しい選択

番組では『桜島燃記』という記録に残された、生存者たちの証言も紹介されました。
ある母親は幼い娘の手を引き、赤ん坊を抱えながら逃げ続けます。
ところが飛来した大きな火山弾が赤ん坊に直撃しました。
母親は何度も声をかけます。
「しっかりしなさい。」
しかし赤ん坊の体は少しずつ冷たくなり、どうすることもできませんでした。
母親は涙を流しながら、亡くなった赤ん坊の顔に手ぬぐいを掛け、逃げ続けたと伝えられています。
また別の親子は、水を一滴も飲めないまま避難を続け、喉の渇きに耐えきれなくなった子どもに、母親が自分の尿を手に受けて飲ませたという記録も残されています。
どちらも読むだけで胸が締め付けられる話ですが、それが実際に起きた出来事なのです。

命をつなぐ知恵も残されていた

一方で、人々は必死に命を救おうとしていました。
垂水側では救護所が設けられ、何日も食事も水も口にしていない避難者を受け入れます。
しかし、空腹や脱水状態の人に一度に食べ物や水を与えると命を落としてしまうことを経験的に知っていました。
そのため、お椀一杯ずつ粥を食べさせ、「次の場所まで行けば、また食べられるから頑張ろう」と励ましながら少しずつ回復させたといいます。
現代の災害医療にも通じるような知恵が、240年以上前にはすでに実践されていたことに驚かされます。

焼亡塔が伝えるのは、過去ではなく未来

番組の最後に、ジェットさんはこう語ります。
「歴史は繰り返すと言いますので、私たちは決してこれを忘れないようにしていきたいと思います。」
安永の大噴火から135年後には、大正3年(1914年)の大噴火が起こり、桜島は大隅半島と陸続きになりました。
火山は今も活動を続けています。
だからこそ、焼亡塔は過去を悼むだけの石碑ではありません。
「災害を忘れないこと」「命を守るために備えること」の大切さを、現代に生きる私たちへ語りかける防災の碑でもあるのです。
垂水市を訪れる機会があれば、ぜひ菅原神社の焼亡塔に立ち寄ってみてください。
静かに佇むその石塔の前では、教科書だけでは決して伝わらない歴史の重みと、命の尊さを感じることができるでしょう。
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