放送日: 2022-12-17 史跡

江戸時代に山を貫いた奇跡――花岡用水路を築いた島津岩子の挑戦

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番組名:歴史の散歩道


「もし、この山の向こうから水を引くことができたなら――。」
今では当たり前のように広がる花岡の美しい田園風景。しかし約250年前、この地には十分な水がなく、広い土地がありながら稲作が思うようにできませんでした。
その不可能とも思える課題に立ち向かった一人の女性がいました。花岡島津家第二代当主・島津久尚の後妻、島津岩子です。今回の「歴史の散歩道」では、花岡用水路の誕生と、その陰にあった人々の努力を訪ねました。

島津岩子夫人の石碑

水がなければ、豊かな土地も生かせない

番組では、花岡用水路の顕彰碑の前から現地取材が始まります。
案内役は瀬角龍平さん、花岡を見渡しながらこう語ります。
「この花岡は山に囲まれています。土地はあるのに田んぼが作れなかったんです。米ができないということは、暮らしも藩の財政も豊かにならないということでした。」
鶴羽城山公園に建立されている石碑にも記されているように、花岡は決して土地が痩せていたわけではありません。稲作に適した土壌がありながら、川がなく、水を引くことができなかったために畑作しかできなかったのです。
そこで立ち上がったのが島津岩子でした。
彼女は山の向こうを流れる高須川に目を付け、「あの水を花岡へ導こう」と考えます。
しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。

島津岩子夫人の石碑の前で説明を聞く

江戸時代に4キロのトンネルを掘るという壮大な計画

現在なら重機で行える工事も、江戸時代にはすべて人の手。
山腹を約4キロにわたって掘り抜くという、想像を超える大工事でした。
番組では、
「約8年かけて、1773年に着工し、1780年に完成した」
と紹介されます。
しかも当時は土木技術も石工技術もまだ発達していません。
岩盤を少しずつ削りながら、険しい山の中を掘り進める作業は「言語に絶する苦労だった」と石碑にも刻まれています。
地域の大人だけでなく子どもたちまで工事に参加し、働いた人には一握り分の日当が支払われたとも伝えられています。
それほど多くの人々が、この用水路に未来への希望を託していたのでしょう。

島津岩子夫人の石碑

岩子が築いたのは、水だけではなかった

パーソナリティのあやみさんは、現地を歩きながらこんな感想を語ります。
「町の人たちの協力を得られたということは、岩子夫人との信頼関係が築かれていたんでしょうね。」
この言葉がとても印象に残ります。
工事は8年という長い歳月を要しました。完成がいつになるかも分からない中で、多くの人が諦めずに力を合わせ続けた背景には、岩子の人望と、「みんなで暮らしを良くしたい」という共通の願いがあったのでしょう。
案内役も、
「久直公が政治を担い、岩子夫人は領民を豊かにする経済の面を考えていたのではないでしょうか。」
と話しています。
米が多く収穫できれば、人々の生活は安定し、藩の財政も豊かになります。
岩子が見据えていたのは、一時的な利益ではなく、未来の花岡だったのです。

島津岩子夫人の石碑

今も流れ続ける「命の水」

取材班は、高須川にある花岡用水路の取水口も訪れます。
そこには水量を調整する設備があり、そばには水神様が静かに祀られていました。
昔から人々は田植えの前になるとここで祈りを捧げ、水への感謝を忘れなかったといいます。
「命の源ですね。」
そんな一言が、とても自然に胸へ響きます。
この場所から流れ始めた水は、現在も花岡の田畑を潤し続けています。
国道220号古江バイパスを走ると、初夏には道路の両側に青々とした水田が広がります。
その美しい景色は、250年前に山を掘り抜いた人々の汗と努力、そして島津岩子の強い信念によって生まれたものなのです。

島津岩子夫人が築いた花岡用水路は現在でも利用されている

歴史は、今の景色の中に生きている

私たちは何気なく田園風景を眺めていますが、その一枚の風景にも、多くの先人たちの知恵と挑戦が積み重なっています。
「この山の向こうから水を引こう。」
その一つの発想が、地域の未来を大きく変えました。
花岡を訪れる機会があれば、ぜひ用水路や顕彰碑、そして取水口にも足を運んでみてください。
そこには単なる土木遺産ではなく、「地域を豊かにしたい」という一人の女性と、人々が力を合わせて成し遂げた壮大な物語が、今も静かに流れ続けています。


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