300年前の水路は、なぜ今も生きている?――錦江町・若宮神社の石碑が語る川原新田の物語
文字起こし・アーカイブ
番組名:歴史の散歩道
「この水路、いったいいつ造られたものなんだろう?」
錦江町田代川原を歩いていると、今も田畑を潤している一本の用水路に出会います。そのすぐ近くに、ひっそりと立っているのが若宮神社の石碑です。
一見すると、何気ない石碑。しかし、刻まれた文字を読み解いていくと、そこには300年以上前、この土地を「畑」から「田んぼ」へ変えようとした人々の苦労と知恵が刻まれていました。
江戸時代、この土地で始まった大工事
錦江町田代川原にある若宮神社は、400年以上の歴史を持つ神社です。創建年代ははっきりしていませんが、元禄13年(1700年)には社地が開墾され、現在の場所へ移されたと伝えられています。
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今回注目するのは、境内にある「川原新田」の開発を伝える石碑です。
碑には「元禄8年」という年代が記され、さらに元禄14年(1701年)には、この新田開発に関わる水路が完成したことが刻まれています。
パーソナリティのあやみさんが「新しい田んぼを作るための溝、水路ですよね」と尋ねると、まさにその通り。
つまり、この石碑は単なる記念碑ではありません。
「どうやって水を引き、新しい田んぼを作ったのか」という、地域の農業開発の歴史を今に伝える記録なのです。
「作人」の力を合わせて造った水路
当時の工事は、決して簡単なものではありませんでした。
水路を通すためには、平地だけでなく、硬い岩盤にぶつかる場所もあります。トンネルを掘らなければならない場所もあったといいます。
工事が思うように進まない中、人々はさまざまな工夫を重ねました。
石碑には、農業を営む人たちが力を合わせて工事を行ったことや、関係した人々の名前も刻まれています。
そして、現在も残る用水路は、木之口の用水路から水を取り入れ、約4キロにわたって流れていると紹介されています。
300年以上前に造られた水路が、今も地域の農業を支えている。
そう考えると、目の前を流れる水の一滴一滴が、急に歴史を帯びて見えてきます。
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畑が田んぼになった。その先にあったもの
この開発によって、64町歩、現在でいう約64ヘクタールもの土地が畑から水田へ変わったと伝えられています。
米は当時の重要な農産物です。収穫された米は生活を支えるだけでなく、年貢という形でも地域社会を支える大切なものでした。
つまり、新しい水路を造るということは、単に田んぼを増やす工事ではありません。
地域の暮らしそのものを変える、大きな事業だったのです。
そして、その工事を後世に伝えるために、人々は石に文字を刻みました。
石碑のそばには、今も暮らしがある
面白いのは、石碑が「過去の遺物」として孤立していないことです。
現在も水路は使われ、毎年、地元の人たちによって水路の清掃が行われています。その後には、石碑に掛けられたしめ縄も新しくされるそうです。
つまり、地域の人たちは石碑に刻まれた歴史を特別なものとして眺めるだけではなく、今も日々の暮らしの中で受け継いでいるのです。
番組では、石碑に刻まれた地元の人々の名前にも触れています。長い年月の中で文字はかなり欠けていますが、そこには確かに、この土地の開発に力を尽くした人たちの存在が残されています。
300年前の人々に会いに行く
今回の取材では、2022年9月に紹介した「両根占用水路」の話にもつながりました。
小川から取水し、広い地域へ水を通した工事が1665年から1672年にかけて行われ、その後、1695年から川原新田を開くための水路が造られたのではないか、と番組では考察しています。
こうして歴史をつなげて見ると、一つの石碑だけでは分からなかった地域の姿が浮かび上がってきます。
「やっぱりこうして現地を歩いていくと、なんか新しい発見があっていいですね」
パーソナリティの言葉どおり、歴史は本の中だけにあるものではありません。
神社の境内に立つ石碑、今も流れる用水路、毎年張り替えられるしめ縄。そして、その周辺で遊ぶ子どもたち。
そこには、300年以上前の人々が残した「未来への仕事」が、今も続いています。
次に近所の石碑や水路を見つけたら、少し立ち止まってみてください。
「これは、いつ、誰が、何のために造ったんだろう?」
そんな小さな疑問から歩き始めると、いつもの町が、歴史の舞台に変わって見えてくるかもしれません。
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