放送日: 2023-04-22 史跡

「賊軍」と呼ばれた人々は、本当にただの反乱者だったのか――財部町に残る一つの石碑が語る、西南戦争の知られざる思い

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番組名:歴史の散歩道


「なぜ、あの若者たちは戦場へ向かったのだろう?」
明治10年(1877年)に起きた西南戦争。西郷隆盛を中心に鹿児島の士族たちが政府軍と戦ったこの戦争は、後世から見れば「官軍」と「賊軍」という二つの立場で語られがちです。
しかし、戦場へ向かった本人たちや、その帰りを待っていた家族、生き残った仲間たちにとって、本当にそれだけで割り切れる出来事だったのでしょうか。
その答えを静かに語ってくれる石碑が、曽於市財部町の龍虎城公園に残されています。

龍虎城址の説明版

西南戦争のすぐ後に建てられた石碑

龍虎城公園にある西南戦争招魂碑。その向かって左隣に、もう一つの記念碑があります。
大隅史談会の瀬角龍平さんに案内していただくと、この石碑は西南戦争が終わってから、わずか2~3年ほどの時期に建てられたものだといいます。
瀬角さんは、この碑について「石碑を建てた云われというか、行った人々の思いが書いてある」と説明します。
そこには、明治10年の西南戦争で戦死した人々の名前が刻まれています。いわば墓碑のようなものです。
ところが、長い年月の中で文字は風化し、さらに人為的に削られたのではないかと思われる部分もあります。
瀬角さんは、何度も現地を訪れて拓本を取り、判読できない文字を推測しながら読み解いてきました。そこから見えてきたのは、単なる戦死者名簿ではありませんでした。

龍虎城公園内-西南戦争招魂碑

「賊軍」では終われなかった人々

西南戦争で亡くなった人々は、政府側から見れば反乱軍でした。
しかし、故郷に残された家族や、ともに戦場へ行った仲間たちにとって、彼らを「賊軍」や「犬死に」と片づけることは、到底受け入れられるものではなかったのです。
碑文には、彼らが天皇や国家を転覆させるために戦ったのではなく、国を思う気持ちから行動を起こさざるを得なかったのだ、という趣旨が記されています。
瀬角さんは、この碑文について「非常に苦しい論調」と表現します。
理屈で考えれば、出軍は間違いだったのかもしれない。それでも、時代の「勢い」に押され、国を何とかしなければならないという思いが先に立った。
理性と勢い。その二つの間で揺れながら、若者たちは戦場へ向かい、そして帰らぬ人となりました。

245人が出発し、29人が帰らなかった

碑文によれば、財部のこの地域からは、実に245人もの若者が西南戦争に出発しました。
そのうち29人が亡くなったといいます。
石碑の最後には、国を愛する者が戦に直面すると、その愛国心がますます強くなること、そして彼らの子孫によって祭りが行われることを願う言葉が刻まれています。
ここで胸に迫るのは、戦死した29人だけではありません。
生き残った人たちもまた、苦しみを抱えていたのです。
「分かっていながら行かれて、同じように行った人が亡くなられて、生き残られて……」
パーソナリティのあやみさんがそう語ったように、生き残った者たちは、仲間の死をどのように受け止めればいいのか、考え続けなければなりませんでした。
だからこそ、この石碑が必要だったのでしょう。
そこに刻まれているのは、戦争の勝敗だけではありません。亡くなった人を悼み、その死に意味を見いだそうとした、残された人々の心そのものなのです。

龍虎城公園内-西南戦争招魂碑左隣の記念碑

石碑は「歴史」になる前の人々の声

あやみさんは、削られた部分があることを残念に思いながらも、「こうやって瀬角さん方がしっかり現代訳にしてもらって、知ることができた」と話します。
そして、ラジオで伝えることで、「財部を思ってやってきた若者たちがいるんだよ」ということを知ってもらえたのではないか、と語りました。
歴史というと、教科書に載る人物や、大きな出来事を思い浮かべがちです。
けれど、龍虎城公園の小さな石碑に目を向けると、そこには一人ひとりの若者の人生と、彼らを送り出した故郷の人々の思いが残されています。
「西南戦争では誰が正しかったのか」と考えるだけではなく、「なぜ彼らはそう行動したのか」「残された人たちは、彼らの死をどう受け止めたのか」と問い直してみる。
それだけで、歴史はぐっと身近になります。
龍虎城公園を訪れる機会があれば、西南戦争招魂碑だけでなく、その左隣にひっそりと立つ記念碑にも目を向けてみてください。
風化した文字の一つひとつに耳を澄ませると、150年近く前の財部の若者たちの声が、今も静かに聞こえてくるかもしれません。


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