放送日: 2022-02-19 史跡

戦争が生んだ「幻の造船所」を知っていますか――海潟造船所跡が語る大隅の知られざる歴史

文字起こし・アーカイブ

番組名:歴史の散歩道


桜島を望む錦江湾沿いを車で走っていると、何気ない集落と畑が広がる風景が目に飛び込んできます。
しかし、もし「この場所で約2,000人もの人々が働き、30隻もの船が造られていた」と聞いたら、信じられるでしょうか。
今ではその面影はほとんど残っていません。けれど、この静かな海辺には、戦争という時代に翻弄された人々の暮らしと、日本の運命を支えようとした巨大な造船所の記憶が眠っています。
今回は、ラジオ番組「歴史の散歩道」で紹介された、垂水市協和地区にあった『海潟造船所跡』を訪ねます。

何もないように見える場所にあった巨大造船所

番組でパーソナリティのあやみさんとジェットさんが訪れたのは、垂水市海潟の鶴田川河口近くの海岸線。
現在は住宅や畑が並び、「ここに造船所があった」と言われても想像することは簡単ではありません。
しかし現地には案内板が残されており、その説明には驚くべき歴史が記されています。
昭和18年(1943年)、この地に「海潟造船株式会社」が設立されました。その背景には、太平洋戦争の激化がありました。

垂水市海潟造船所跡

ガダルカナル敗戦が生んだ木造船

番組では、現地を案内していただいた瀬角さんの説明が印象的でした。
「船がないとどうしようもない。」
この一言に、当時の日本が置かれていた切迫した状況が凝縮されています。
昭和17年のガダルカナルの戦いで、日本は多くの輸送船を失いました。
兵士を運ぶ船も、食糧を運ぶ船も、武器や弾薬を運ぶ船も足りない。
しかし鉄は不足していました。
そこで政府が打ち出したのが「木船建造緊急方策」。
「日本には木があるじゃないか。」
そんな発想から、大型の木造輸送船が全国各地で建造されることになります。
海潟造船所もその一つでした。
日本郵船系列の会社として設立され、250総トン級という当時最大規模の戦時標準木造船を専門に建造していたのです。

なぜ海潟だったのか

海潟が選ばれた理由も興味深いものです。
錦江湾に面したこの海岸は、岸から急激に深くなる地形をしています。
そのため、完成した大型船を海へ浮かべやすいという大きな利点がありました。
地形そのものが造船に適していたのです。
昭和18年12月には、第1号となる「第21郵船丸」が進水しました。
その後も約30隻が建造され、完成した船は海軍に徴用され、台湾や中国大陸との輸送任務に就きました。
しかし、その多くは戦火の中で海へ沈んでいきました。

写真に残された「炭焼き小屋」の謎

番組の中で、とても興味深いエピソードが紹介されました。
昔の集合写真を見ていると、背景に丸い屋根の小屋が写っていたそうです。
最初は何の建物かわかりませんでした。
調べてみると、それは木炭を作る施設でした。
船は真っ直ぐな板だけでは造れません。
船体の曲線を作るためには、厚い板をゆっくり熱しながら曲げる必要があります。
その熱源となったのが炭火でした。
炎ではなく、じんわりとした炭火で時間をかけて木を曲げていく。
一枚の写真から、そんな造船技術まで見えてくるという話には、思わず引き込まれます。

垂水市海潟造船所(説明版)

空襲が襲った海潟造船所

戦争末期には、この造船所も戦火を逃れることはできませんでした。
昭和20年3月18日、鹿児島市を空襲した米軍機が桜島方面から飛来し、海潟造船所周辺でも機銃掃射が行われたと伝えられています。
家屋が焼失し、人々は戦争の恐ろしさを身近に感じることになりました。
さらに終戦後は、枕崎台風や桜島の昭和噴火によって造船所の遺構も失われ、現在では当時の姿を見ることはほとんどできません。

静かな景色の中で歴史に耳を澄ませる

現在の海潟造船所跡は、錦江湾の穏やかな海と雄大な桜島を望む静かな場所です。
何も知らずに訪れれば、美しい景色だけが心に残るかもしれません。
しかし、この場所で戦時中、多くの人々が汗を流し、巨大な木造船を造り続けていたことを知ると、景色の見え方はきっと変わります。
ジェットさんが番組の最後で語ったように、「ぜひ自分の足で見に行ってください」という言葉には大きな意味があります。
現地に立ち、潮風を感じながら海を眺めると、そこには教科書には載らない地域の歴史が静かに息づいています。
大隅には、まだ知られていない戦争遺跡や歴史の舞台が数多く残されています。
次の休日は、海潟造船所跡を訪れ、この土地に刻まれた記憶に耳を澄ませてみてはいかがでしょうか。


—TAGS—
海潟造船所,垂水市,戦争遺跡,大隅半島,歴史散歩,錦江湾,木造船,鹿児島観光