放送日: 2022-11-19 史跡

志布志城は「廃城」になっても生き続けた――御仮屋が語る武士たちの誇り

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番組名:歴史の散歩道


「城がなくなれば、その歴史も終わる。」
多くの人はそう思うかもしれません。しかし、志布志城の歴史は違いました。戦のための城として役目を終えたあとも、人々の暮らしの中で生き続け、地域の心の支えとなっていたのです。
今回はラジオ番組「歴史の散歩道」で紹介された、志布志城のその後の姿をたどります。
番組では、志布志市文化財保護指導員の米元史郎さんが、江戸時代の志布志城について興味深い話を聞かせてくれました。
「戦の時のお城だけど、普段は殿様が住んでいた館がありましたよね。」
そんな問いかけから始まった話は、戦国時代から江戸時代への大きな時代の転換へと続いていきます。

志布志城の歴史の説明書き

城から「御仮屋」へ変わった志布志

江戸時代になると、島津氏は鹿児島城下から薩摩藩全体を統治するようになります。
そのため各地には「地頭」と呼ばれる役人が派遣され、志布志には**御仮屋(おかりや)**が置かれました。
米元さんは、「現在でいう市役所、防衛、警察を合わせたような役割を持つ施設だった」と説明します。
政治の中心は御仮屋でしたが、実際に地域を支えていたのは志布志麓に暮らす武士団でした。彼らは行政を担い、地域を守りながら、新しい時代の志布志を築いていったのです。
さらに興味深いのは明治時代の変化です。
役目を終えた御仮屋は、小学校へと生まれ変わりました。
行政の中心だった場所が、子どもたちが学ぶ場所になる――。歴史の舞台は、時代とともに形を変えながら受け継がれていったのです。

志布志城を治めた五人の城主たち

番組では、歴代の城主についても紹介されました。
最初に名が上がるのは、信濃国からやって来た楡井頼仲。その父が松尾城を築いたことが記録に残っています。
その後、武蔵国から来た畠山氏が志布志を治め、続いて約180年という最も長い期間を統治したのが新納氏でした。
米元さんは、
「全国の新納さんのルーツは、この志布志にあると言っていいでしょう。」
と語ります。
新納氏は島津氏の有力な一族として長く志布志を支えました。
その後は豊州家島津氏、そして肝付氏へと城主が移り変わります。
こうして振り返ると、志布志城はわずか一人の領主の城ではありませんでした。
海に面した交通の要衝であり、貿易の拠点でもあった志布志は、多くの武将たちが手に入れたいと願った重要な城だったことがよく分かります。

廃城になっても、人々は城を忘れなかった

江戸時代になると、「一国一城令」によって志布志城は廃城となります。
しかし、それで城が完全に忘れ去られたわけではありません。
発掘調査では、江戸時代につくられた石段が見つかっています。
本来、山城は敵が攻めにくいよう複雑な道筋になっていますが、この石段は下の曲輪から上の曲輪へ楽に登れるよう整備されていました。
その理由について米本さんは、「江戸時代にも祭りが行われ、多くの人が訪れていた証拠」と話します。
つまり志布志城は、戦うための城ではなく、人々が祖先を敬い、地域の結び付きを確かめる場所へと姿を変えていたのです。
城は失われても、そこに込められた誇りや記憶は消えませんでした。

今も歩ける歴史の舞台

番組の終盤、パーソナリティのあやみさんは少し残念そうにこう話しました。
「今回は現場には行けなかったんですけど、今度は実際に行って、この景色を見ながら皆さんに伝えたいですね。」
その言葉を聞くと、私たちも歩いてみたくなります。
石段を登り、曲輪を巡り、城主たちや武士たち、そして祭りに集まった人々の姿を想像するだけで、歴史は教科書の中の出来事ではなく、自分の足元につながる物語へと変わります。
志布志城は「戦の城」としてだけではなく、「人々の心をつないだ場所」として今も静かに歴史を語り続けています。
次に志布志を訪れる機会があれば、ぜひ城跡を歩いてみてください。石段の一つひとつが、七百年近く積み重ねられてきた時間を、きっとあなたにも語りかけてくれるはずです。


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